曹洞宗修証義

syusyogi

  第一章・総序(はじめの総論)

(第一説)
人々が生まれたり、死んだりしている輪廻・転生のなかにあって、人生の目的や生きがいを正しく理解し、どのように対処してゆくのかはっきりみきわめることが、私達仏教を信仰するもの者が取り組むべきもっとも大切な問題です。 人生の真実の意識をさとったもの(仏)は、この現実を苦しみと見たり、楽と感じたり、悩んだり、迷ったりせず、今この日送りがそのまま、心安らかで生死にとらわれないものになるととらえています。 生きていて煩わしいとか、いずれは死んでいかねばならないと厭う事も、生死についてどうにかしようという思惑も捨てています。 私達も、この生まれてから死ぬまでの暮らしがそのまま涅槃(煩悩の火の消えた状態)であると心得れば、いやがってぬけだそうとする生死(まよい)の生活もなく、到達しようとねがい求める涅槃(さとり)もなくなるのです。 この時始めて、生と死に迷い苦しむ気持ちから縁がきれるのです。 この縁を断ち切ってしまうのが、私達に課せられた課題です。真剣に取り組んでいきましょう。

(第二説)
この世界に人間の身に生まれてくることは、容易ではなく、その上仏法を聞くことができるのは、なおさらむずかしく滅多にないことです。私達はいま、前世で行ったよいおこないがもとで、その優れた報いとして、人間に生まれているばかりでなく、仏の説いた真理にもめぐりあわせていただいています。生まれては死んでいく衆生(生きとしいけるもの・そうでないもの)のうちでは一番恵まれた、またすぐれた生涯といえます。このような身の上を、時を無駄に過ごして、日の光にはかなく消えていく草の露のような、終わらせかたをしてはなりません。

(第三説)
すべてのものは無常なものであるから、しばしといえども、とどまることがない、人のいのちも、いつどこで消えるかわからないものです。この自分のからだは、自分のものではあっても、自分の思うようにゆかない、無常の道理には、わけへだてがありません。この命は、なんとなくいつまでも、いきながらえていくように思えますが年月のうつりかわりと共に先が短くなっており、ちょっとの間も引きとめておくことが出来ません。少年少女のころの若さにあふれたあの顔は、どこに消えてしまったのでしょうか。年老いた今は、さがし求めようとしても、あとかたもありません。よくよく考えてみるに、すぎ去ったことは、二度とめぐりあえないことばかりです。臨終のその時がきたら、国王や大臣、また日ごろ親しかった人たち、友人、部下や同僚、妻や子供も、財産も、なにひとつたすけてくれるものはなくたった一人、孤独にあの世に旅立たねばなりません。ただ、一緒についてくるのは、自分がこの世で行ってきた色々な善悪の行為や経験と、その影響ばかりです。

(第四説)
この世において、からだ、ことば、意思による行為が因(もと)となってその報いとしての結果があらわれるのは、さけられない道理だと思われず、善行・悪行には必ず報いのあるあることを承知せず、現世に対して過去世があり未来世があることを理解せず、善と悪の行為を正しく判断できないような考え方・見解をもつ人々とは交わりをもたないようにしましょう。原因があればかならず結果のある道理(実際のみちすじ)は、はっきりしていて、人間の我がままは、全く通用しません。悪を造るものは悪い環境に落ち善をおこなう者はよい身の上になってゆく、少しのくるいもありません。もし、因果の道理が間違いで、何もないということなら、諸仏が優れた善行の報いによって、俗世間を離れて仏界に入ることもなく、達磨大使が、インドから中国に来られて仏法を伝えて下さることもなかったのです。

(第五説)
善行、悪行の報いについては、その報いを受ける時から言って三つあります。

第一は、この世で行った善悪の報いをこの世で受ける順現報受。
第二は、この世で行った善悪の報いを次の世で受ける順次報受。
第三は、この世で行った善悪の報いをこの世では受けず、次の世でも受けず、次の次の生以後、百千生の間に受ける順後次受。
これを三時の業報といいます。仏祖がたの歩まれた道を修行してゆく前に、善悪の行為には、三時にわたって報いがあるという理(ことわり)を最初に会得して、はっきりさせておくべきです。そうでないと、間違った邪見(善因善果、悪因悪果の道理を認めない間違った考え)におちいるばかりでなく、地獄、餓鬼、畜生というような境遇に生まれ変わり、長い時間にわたって苦しむことになってしまうのです。

(第六説)
よくよく心得ておかなければいけません。この世に生をうけた自分自身というのは、たった一つであり、二つも三つもありません。かかわらなくてもいい邪見(因果を否定する間違った考え)に惑わされて、悪の道(世界)にいたり、この身に悪行の報い(地獄・餓鬼・畜生の身に生まれる)を受けるのは、まことにもったいないことではありませんか。また、悪を造っておいて悪ではない、証拠がないと主張し、悪の報いなどあるはずがないと、正しいことわりにそむいた偏屈な考えを持っていても、悪の報いをこの身に受けないですむというものではありません。

第二章・懺悔滅罪(仏様に自らのあやまちを悔い、告白して改める)

(第七節)
智恵と慈悲をそのこころとするお釈迦さまや祖師がたは、すべてのものを救済するための門を、広く大きく開いておられます。それは、過去に多くの悪業を積み重ねてきた者をも含むあらゆる人々が、仏祖のこころに目覚めて、仏の道に導かれるようにする為です。この道理を知った人間界の人、天上界の人、誰といって仏門に入らないことがありましょうか。
順現報受、順次生受、順後次受の三時にわたる悪業報は、いかなる人、地位にあっても避けることは出来ません。その影響は必ずあとに残ってしまうけれども、自分の悪しき業に気づいて、仏前(お釈迦様)に懺悔するならば、重い報いも軽く受けさせていただけるのです。また、犯した罪は清算されていき、きれいで汚れのない、すがすがしい爽やかな気分になってきます。

(第八節)
ですから、傲慢な心・強情な心を捨てて、清浄な心になり釈迦牟尼仏に、大きな悪業・小さな罪・科を懺悔(告白し詫びる)してしまうべきです。なぜなら、仏様の前で懺悔をしたという善い行ないの力が、私達を重苦しい罪の捉われから、解き放ってくれるようにはたらくからです。そればかりではなくこの懺悔の功徳は、なにものからも妨げられない、清らかな信仰心をもよおさせてくれるとともに、これからはしっかりやっていこうという決意も育ててくださるのです。
この気持がひとたび現れると、自分だけでなく、接している他の人までが清浄な世界へ導かれていくようになります。人は懺悔を修したおこないによって、仏ごころが目覚め、心のはたらく人間・動物ばかりでなく、心なき樹木とか岩石などあらゆるものに豊かな愛情を振り向けられるようになってきます。

(第九節)
その仏前での懺悔の大切な趣旨は、『どうかお願い申しあげます。仏の教えられた正しい道を修め、悟りを得られた仏祖がたよわたしに、たとえ過去の罪過が多く積もって、仏道による正しい日常生活をさまたげる因縁がありましょうとも、どうかわたしをあわれんで、いつとはなしにつみかさねてきた我見・妄想から生じた悪業のかずかずから開放させて下さい。また、仏道修行がすすみますよう導いて下さい。天地万物にあくまねく及んでおりますように』ということです。
いま、仏祖といわれる方々もその昔は私達と同じように、罪業の深い凡夫でした。今は、罪ぶかい私達ではありますが、仏前に懺悔し、仏道修行に精進してゆくことによって、将来は必ず仏祖になれましょう。

(第十節)
我昔所造諸悪業
皆由無姉貪瞋痴
従身口意之所生
一切我今皆懺悔
『私が昔からつくってきた、色々な悪業はすべていつとはなしに前世以来身についた、むさぼり、いかり、おろかさ・無知などの三毒煩悩から誤った身・口・意の業[殺生・盗み・ふりん・うそ・わるぐち・中傷・無駄口・むさぼり・怒り・邪険]を生じさせたものですが私はいま、すべての悪業を悔い、お詫びいたします。』
このように懺悔すれば、必ず仏祖の目に見えない御加護があります。仏祖の慈悲を信じ端坐合掌して、懺悔の文を口に唱えて、知らずに犯していた罪・そうでない罪の一切を告白すべきです。自分の裏・表をさらけ出し、自分のすべてを正すまごころには、罪過をつくり出している根元である、貪・瞋・癡の妄想をすっかりなくしてしまうはたらきがあります。

第三章・受戒入位(戒を受けて諸仏の位にのぼる)

(第十一節)
懺悔して、新しい暮らしの一歩を踏み出した次には、社会をみちびく尊い宝ものである三宝(最高の人格者・仏、全てに通ずる真理の法、そして法を依り処とした和合のすがたである僧)を深く敬ってゆくことです。なんども生まれ、死にかわりして、またこの世界に存在してこうようとも、己をむなしゅうして、仏法僧という三宝に、身命を捧げる願いを持ちましょう。インドから中国日本へと伝わって来た仏教の教えの根本は、仏法僧に帰依(母と子のような信頼と敬虔な心を寄せて無条件に従っていくこと)することでした。

(第十二節)
もし、信仰もなく欲望の涌くままに過ごしている、物質・善行の、面において幸せの少ない人々にあっては、三宝という言葉さえ聞くことはありません。まして、三宝を信じてその教えに身心を投げ出している、仏弟子とならせて戴けるわけがありません。
さし迫った苦しみや難儀を恐れ、また義理や脅迫(バチがあたるぞなどと言われて)により、山に鎮座する山の神・死者の霊魂などをまつった鬼神を信じ、或は幻惑されて、霊の宿るほこら、樹木、石などにすがってはなりません。
そのようなものを依り処としたところで、物質・精神両面にわたる、人生のおおくの苦しみから逃れることはできません。
だから、一分でも一秒でも早く仏と法と僧の三つの宝を、おのれの生き方のよるべとし、不安・憂鬱・満たされぬ気持ちから、とき・はなたれ・のがれるだけでなく、菩提(真実の智慧に目覚める)を自分のものにしようと決心することです。

(第十三節)
その三宝に帰依するとは、我見のない信心をひとすじに、三宝の三種の功徳を敬い、すべてを投げ出して、心のよりどころとすることです。三宝の三種の功徳には、如来(お釈迦様)がこの世においでになるときでも、また如来がなくなられたのちでも、我々はこれを尊ぶべきです。
最高のさとりを、あのくたら・さんみゃく・さんぼだいと呼びこのさとりを得たものが仏法であり、仏のさとられた内容が法宝であり、僧は仏の命をうけてその法を説き、お互いに和合して衆生を導く任にあたるのが僧宝であります。これら三者は決してバラバラには存在しえないという、『一体三宝』という教え。
現にこの世に現れて悟りをひらき仏陀となった釈尊を仏宝、その教法を法宝、教法を学び教化にあたった比丘(男僧)比丘尼(尼僧)の団体を僧宝といった『現世三宝』の教え(如来現世在世)
釈尊がなくなられた現在、寺院の本堂などに住する仏様を仏宝、経典・説法の数々を法宝、法宝を護持し修行・教化につとめる住職など僧侶の団体を僧宝という『住持三宝』の教え(如来滅後)このように三宝の功徳は、今も現に存在しておりますから私達は両掌を静かに合わせ、(仏の心と自分の心のあわさったすがた)頭をさげて礼拝し(仏を敬い、尊ぶかたち)、次の一句を声にだしてお唱えすることです。
『南無帰依仏・南無帰依法・南無帰依僧』(三帰依文)仏は、天上界・人間界の最高の導き手ですから、帰依します。法は、あたかも名医が病人のやまいをみて、それに応じた薬を与えるように、人びとの苦悩を除く良い薬ですから、帰依します。僧は、仏宝を学び、ともに和合して人びとの指導にあたる勝れた友人ですから、帰依します。
誤りのない実践生活に努める仏弟子(仏さまのこども)とならせていただくには、仏さまのこころに入って、心安らかな生活を保っていくためのきまりを僧侶に授けてもらう仏戒を受ける前に合掌低頭し、仏法僧の三宝の名を唱える作法を修めることです。
仏教の世界には、いくつかの戒律がありますが、これからどんな戒を受けようともまず三宝に帰依し、そのあとで、戒を受けるべきです。仏法僧の真の意義を把握し、帰依し続けることがもとになってはじめて、戒のこころにめざめ、戒の功徳が本当にこの身についてくるようになるのです。

(第十四節)
三宝に、わが身を投げ入れ、よりどころとした時の恵み(安心感)は、人々が己の心を空にして合掌礼拝し、三帰依文を唱え、それに応える仏の方のはたらきが、ひとつになってひびきあい交わりあい・一体となったとき、必ず現実のものとなってきます。
たとえ、天上界にある神々・天人、暮しのなかで、ちょっとしたことで有頂天になっているもの、辛酸苦労しウカウカ過ごしている人びとも、また、地の底に沈むような苦しみ・不安にあえぐものや、たえずガツガツしている餓鬼や、無知で愚かな畜生とよばれるものたちであっても、仏の慈愛に、心が動いて、感応道交(仏と一つになろうともよおすこと)したときには必ず三宝に帰依するようになるのです。
ひとたび帰依しこの処に安心してからは、その身が生まれかわり・死にかわりして、いかなる時代、どのような場所にあろうとも、そのすぐれた恵み・はたらきは増えつづけ、善行を重ね仏道を修習した功徳は益々進んで、そこに、この上ない『あのくたらさんみゃく・さんぼだい』という無上のさとりが、現実になって表れるのです。

(第十五節)
次には、三つの清浄な誓願の戒を受けさせていただきましょう第一摂律儀戒『十不善(ころすこと、盗み、不倫、うそをつく、悪口、中傷、無駄口、貪り、怒り、邪険)を離れ、その他あらゆる悪業をつくりません』
第二摂善法戒『あらゆる善い行いをなし、また他のものにもこれをすすめます』
第三摂衆生戒『永く世の人びとのためにつくし、すべてのものを慈しみ、衆生救済につとめます』
そして、次には十重禁戒の十項目の大切な禁戒(いましめ)を守ると願い誓いましょう。
第一不殺生戒=『常に、慈悲心・考順心(まごころ)をもち、生物の命を守り、無益に生命を断つことなくこれを保護し、また器物・財物に至るまで、その用途をまっとうするするよう心がけます』
第二不ちゅう盗戒=『他人の物を盗らないばかりでなく、施し慈善などの善い行ないをして、不正な行為をせず、道理に合わない利益をむさぼることをしないで、社会のためにつくします』
第三不邪淫戒=『正しい夫婦関係以外の、不純な男女の交わりは悪をつくり財を失い揉め事のもとになる。清浄な営みは、人間社会を美しいものとし秩序あるものにするから、よこしまな男女関係はもちません』
第四不妄語戒=『常に正しい考え方をもって、真実を語り、決してうそ・いつわりをいいません。自らをあざむき他を欺くことなく、他のものに正しく見ること・正しく語ることをすすめます』
第五不こ酒戒=『酒は、迷い・乱れ・過失・不健康・放逸のもとであるから、理性を働かせて「迷い酒」をもちまわりません』
第六不説過戒=『常に、慈しみの心をもち、他のものの悪口をいわない。たとえ、人から悪口を言われても、そのあやまちを諭し正しい道に導いてゆきます』
第七不自讃毀侘戒=『自らおごり、自らをたのむものは、他をいやしみ、きずけるものである。好い事は他に譲り、悪事は自分が代わってうける慈悲心は、自然に、自分の徳をあげるもとである。自らを誇り、他人をそしるようなことはしません』
第八不慳法財戒=『教法も財物も、これをおしむことなく、衆生の慈悲のために施します』
第九不瞋恚戒=『怒ったり、争うことのない、平和な生活を営める社会を積極的につくることに協力します』
第十不謗三宝=『仏、法、僧の三宝をけなし害をすることなく、人がこれを非難し悪く言うようであれば、自らを深く反省して、改善に努力していきます』と以上、説いてきた、三宝帰依、三中聚浄戒、十重禁戒というものは、仏教生活の正しいあり方として、もろもろのみ仏が、受け伝えてこられたものであります。

(第十六節)
戒を受けること、仏道のきまりを守ると誓願することは、過去・現在・未来の三世の諸仏が、じっさいに明らかにされたダイアモンドのように絶対に破壊されることのない無上のさとり(無明煩悩を破る智慧の輝き)を自ら実証することです。
受戒はこのような仏果(仏のさとり)を知らせてくれるものであるから、道理のわかる智慧ある人は、欣んで仏戒を受けようとねがいます。欣び求めない人は、誰もいないでしょう。
世尊(仏陀)は、あきらかに、この世のすべての人びとに、この理を次のように示しておられます。
「世の人々が、ひとたび、心一途に仏戒を受ければ、人は、そのまま、仏の位(みぶん・ところ)に至ります。仏戒を受けた人は真実、仏の子となるのです」と。

(第十七節)
三世(過去・現在・未来)に現れるみ仏たちはみな、この戒法の世界に、安らかに住し、これをたもち続けるさまは、意識的にそれを知り・感じるというようなとらわれを残しておらず、戒を「~すべし」とか「~すべからず」とは受けとめていません。無心・無我で、善いことはせずにはおられないという物ごとにこだわらない心境に遊んでおられるのです。
この世において、戒法を授けて頂き、すでに諸仏の位に入り仏と一体の世のひとびとは、仏の境地を喜び、日常生活を安心して教えのままに生きているといっても、知る・感ずるという心の思いが完全になくなるわけではありません。もし、日常の上でいろいろと考えめぐらすことがあっても、邪念や妄想はあらわれず、心は、純真そのものといえます。これが受戒の誓いを保っている結果に現れでる心境なのです。受戒生活が、成し遂げられている時十方法界「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏」や天地に存在する土地・草木・かきね・かべ・かわら小石の類に至るまでみな、尊いものとなり、あらゆるものは、仏の心を宿し、仏の光に照らされ、それぞれの使命をもって、たゆまず働いているのが実感されます。風の恵みで草木は花を開き実を結び、水の流れにうるおいを得て互いが互いを生かしあっているという、人の気づかない所での助けあいのなか、有情(こころあるもの)も非情(こころなきもの)も共に、仏国土をつくり上げるため、その本領を発揮していると気付く=このことを悟りをあらわすというのです。これは、心の中で、あれこれ考えて得られるものではなく、ただ、無心・無我となり、戒を受けて仏の位に入ったとき、自然にさとりに向かうのです。決してつくり出されるものでなく、自然にそのようになってくるのです。人が受戒・誓願し、お互いがお互いを生かしあっていると目覚めたとき菩提心[まことのホトケゴコロ]が現れてきます。

第四章・発願利生(多くのものを救い利益を与える、誓願をおこす)

(第十八節)
菩提心をおこすというのは、自分さえよければいいとする自分本位の考えをやめ、生きとし生けるすべてのもののため誰彼を問わず平等に済度することです。それは、社会の為によかれと思って、自分の利を思わず、人に知られず、感謝をもあてにせず、私がやってやったという名残も持たず、ただ善い種を蒔こうと実践しているとき、菩提心があらわれたといえるのです。

たとえ、在家の身であろうと、たとえ出家の身であろうと、或いは天上界にあっても、人間界にあっても、どんな立場であってもなにか心配で、心がせつなくつらい時も、豊かで気持ちよく喜ばしい時であっても、自分の損得は勘定にいれず自分が助かるよりも先に、まわりのものが仏教の正しい道を歩むようにと願って慈悲心をもって、営む(はたらく)のです。

(第十九節)
そのすがた、かたちが、卑しく醜いものであっても、器量が小さく、身分地位が低くても、菩提心をおこしているとすれば、衆生に仏道を示し教え導く指導者といえます。
それが、たとえ幼い女の子たちであっても、あらゆる階層(比丘・比丘尼、ウバソク・ウバイ=男女の在家信者)のよき導き手であり、衆生にとっては慈愛あふれる父母となります。
身分・容貌・老幼・男女その他一切の区別は問題でなく、ただ菩提心がおきているか否かによってきまるもので、これは仏教の究極ともいえるきまりであり、際立った教えであります。

(二十節)
たとえこの身がどんな境遇『六趣=地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上/四生=胎生・卵生・湿生(目に見えず、わいてくるようにして生まれるもの)・化生(天人のように使命のみによって生を受けるもの)』に生まれかわり死にかわりしても、本当に菩提心が徹底して心の立て直しが出来ているならば、その時その場の出来事がことごとく、菩提(仏道・悟り)を得る生活に向かう因縁(ちから)となります。受戒や菩提心を知らずに過ごした歳月は、無駄に積み重ねてしまってきたけれども、この生命、生涯のつきないうちに、今すぐ心を改めて菩提心をおこし、人生の出直しをすることです。

仮に善根功徳が円熟して成仏が達成されるようになっても、これを他のもののために譲り、衆生(迷える人びと)の成仏得道に手を貸すことです。
自分は、仏とならずはかり知れないほど長い間ひたすら衆生済度にいそしんでおられる菩薩(将来仏になりうる、観音様やお地蔵さんなど)もおられます。

(第二十一節)
世の人々に利益をめぐらす為に、四通りの生活実践があります。布施、愛語、利行、同事の四つがそれであり、これらを暮らしのうえに実現してゆくのが、菩薩の生き方であり修行法なのです。

その第一、布施〔財施・法施の二種類がある〕というのは、もともと『三輪空寂』(三輪は、施す人・受ける人・施す物で、空寂は純粋の施しには損得利害を考えない、きれいなものという意味があります)といって、もともと無所得のものであるから、欲張らないことであります。自分に財力がなく力がなくても、広く社会に呼び掛けて奉仕することもできます。人が施すのを見て、共に喜ぶ心をおこすだけでも、立派に布施の功徳を積むことになるという道理(実際のすじみち)もあります。施す物の大小、軽重より、本当に布施の精神に叶っているかどうかが問題なのです。
だから、どんな短い教えや言葉であっても、心から人の為に、施していけば、今の世でも、生まれかわる後の生でも、善根の種は芽ばえてきます。よしんばわずかな金銭・たった一本の草でも布施するならば、この世でも来世でも、善因・善果を受けるもととなります。法の布施は、財施と同じ意義があり、真の財施は、心の布施でもあるから、真の布施行は、法財の別なく真実の行です。肝心なのは、布施をしても、お返しを願わないことです。
お礼を求める気持ちがあると、汚れたものになるから。ただ、自分の力に応じ、分にしたがって、布施すればいいのです。
例えば、川に渡し舟を置くことも、橋を架けたりして人の便利をはかるのも、布施行であり、人々を仏のこころである彼岸に導いていく智慧であり、手段となります。
日常の経済生活で、生産・商業にたずさわる者が、買う者、使う者の身になって、生産し販売をするならば、布施行といえないこともないのです。

(第二十二節)
第二の愛語というのは、まずその人に対して、慈しみなごむ大きな愛情心を持ち、優しい言葉を使って話しかけてあげることです。これにより、親愛の情が増し仏の道に関心をもつきっかけも生まれます。赤ちゃんを大事に愛撫する母親のような気持ちで(仏・菩薩が、一切衆生をわが子のように思っているように)話しかけるのは、愛語といえます。

素直で善い行いをする人を見れば、ありのままにこれを称え、心がゆがんでいて性行(たち)のよくない人に対しては、気の毒に思い励ましの言葉をかけてあげればいいのです。
怨敵(あだ・かたき)のように思える者も、憎しみが消えて、地位のある人物の争いを仲良く和合させることも、愛語(慈愛溢れるいたわり・なぐさめ・励ましのお声がけ)が根本となります。
愛語で話しあい、よい言葉づかいで話しかけるのは、すがすがしく楽しいもので、心がゆたかになってきます。また、人づてに愛語を耳にすれば、なおさら感銘は深く、それが自分に対する賛辞であれば、いっそうそのゆかしさ、慈愛のありがたさは心に刻まれ、魂に響いて忘れがたいものとなりましょう。
愛語には、天下の情勢を一変させるほどの力や、生まれてこのかた悪業に染まってきた身心も、翻させて善道に導くという、地味ですが強い力のあることを信じるべきです。

(第二十三節)
第三の利行というのは、身分の高い低いにかかわらず、さまざまな衆生にわけへだてなく、巧みな方法・てだてを講じて、仏の恩恵(利益)を与え正しい道にめぐらすことであります。

中国の晋の時代に、孔愉という人は若いころ旅に出て、余不亭というところを通ったとき、子供達が路上で一匹の亀をおもちゃにしていたのを、買い取って谷川に放してやり、また同じく中国の後漢の頃、楊宝という人が、鳶におそわれて傷ついた一羽の雀を助けて、飛べるようにしてあげました。後にこの亀や雀は恩返し(孔愉・楊宝は、そのおかげで立身出世したり、子孫が高位・高官に昇り繁栄した)をしたということです。
利行というものは慈悲の心のあらわれだから、恩返しを期待したり、感謝を待ち望んだりするのではなく、ただひたすら相手のためによかれと思う心にひかされて、手を貸してあげることです。
この道理のわからない愚かな者は、他の者に先に利益を与えると自分は損をするのではないかと早合点しがちですが、そうではないのです。利行を修した時には、自分と他人とのさかいめが消えて、一つにまとまります。与えるものも、受けるものも等しく、利益(よろこび、幸せ)を得るものであって、片方だけがするのは本当の利行ではありません。

(第二十四節)
第四の同事というのは、自分と他人を区別しないことです。自分に厚く他人に薄くとか、己に寛容で人に厳格とか、自分に弱く他人に強いというような、差別を身心ともにしない態度です。
お釈迦様は、衆生済度のため、仏の姿でなく人間の身に生まれ人と同じ生活をし人として亡くなられていますが、決して仏としての自覚を失わない同事行に生きられたのです。
慈悲の心で相手を包み込み、色々な場面・立場にあった適当な方法を使って、親しい感情をおこさせ、自分自身が、相手の中に飛び込み自分を他人と同じようにするという道理もあります。
自分と他の人が、ひとつの心になる、最良のかかわりかたは、無数にあります。海というのは、谷川の水を集めて海となりました。海水(自分)は、河川の淡水(他人)を拒むことなく受け入れたからこそ、水がよく集まり、海になったのです。

(第二十五節)
衆生のために尽くしたいという清浄な願いをおこし、四つの道理(物でもこころでも惜しみなくほかに与える布施・やさしい慈愛の言葉がけをする愛語・無条件に相手のためにする利行・自分と相手と一つになる同事)を、よくおさらいしておくべきです。
これらの教えをかるく考え、見過ごしてはなりません。
一切の衆生をことごとく受け入れ、漏らさず救い扶けようという願いをもよおす営みによってあらゆる衆生が、善にかかわり、仏の心にあらたまり、その利益を受けられるようになるのです。
このように、菩提心の願いと行によって得られるものは、はかり知れない功徳を伴います。この功徳・仏の恩恵を感謝し、心から敬い礼拝すべきです。

第五章・行持報恩(仏の恩恵に感謝し、恩に報いる日暮しをする)

(第二十六節)
すべてのものを助けようという菩提心をおこすということは、誰でもが、どこでもできるというものでなく、南閻浮=『老少不定(寿命のつきるのは、老人からであるとは限らないこと)で、困苦・喜憂をともにし、平和を求め救済の必要な我々の住んでる俗界』の人間の姿・身心において発心できるのです。
人として今、この世に生まれているのは、過去に善業を修めたこともあるけれども、菩提心をおこすべき深い因縁があり、自ら願って、南閻浮=地球に生まれてきたのです。
そのおかげで、娑婆世界の偉大な指導者である釈迦牟尼仏の聞法にであえたのです。これを、なぜ喜ばずにおれるでしょうか。

(第二十七節)
静かに落ち着いて考えてみるべきです。この世に仏の正しい教えがゆきわたっていないときは、我が身・我が命を仏法のためにいかしていこうと願っても、その機会にめぐりあえませんでした。
正法に恵まれている今日の私達の境遇をどんなに願い望んだでしょう。心を開いて下さい。仏は次のようにおしゃっています。『仏の教えを説く宗師に行きあうには、どんななかまのもの・どんな氏すじょうの人か、顔立ちのよしあし・外形のみ眺めて、せんさくしてはいけません。行いのあやまち・まちがいをせめて、非難してはなりません。ただ、仏の心である般若(真実の智慧)を尊重しておられるが故に、仏の最高のさとりを演説する指導者に対し、日ごと日ごと、朝・昼・晩、日夜に礼拝し、つつしんで敬うべきであり、これを煩わしく思ってはなりません』と。

(第二十八節)
今、私たちが仏法の教えに出会うことができるのは、祖師がたひとりひとりが、行待(仏としての正しい修行の生活)を日常努められたおかげであります。真実の法を、仏祖がめいめい、一人の師から正法を伝承してこられなかったならば、はたして今日まで仏の正しい教えが伝わってきたでしょうか。

このような過程をたどってきた法ですから、たとえわずかなひとことでも、また一度だけであっても、聞かせてもらった恩には報謝(おんがえし)をすべきなのに、ましてや今、仏のこころに生きる正しい教えを受けることができた大きな恩のおんがえしをしないで居れるでしょうか。
病雀『後漢のころ、楊宝という生まれつき慈悲深い人がいた。九歳のとき、カインザン
という山の北方で、鳶におそわれて傷ついた一羽の雀をみつけた。雀は、蟻がたかり、もがいていて死にそうだった。何とか助けたいと思い、これを家に持ち帰り、手厚く介抱した。おかげでだんだん元気づきは百日ほどで、飛べるようになった。数年間養っていたが、ある日のこと、たくさんの雀がやってきて、家のまわりをなきながら飛び交いやがていなくなっていた。それは、いままでかっていた雀の死を知らせたものであった。
その夜、黄色い衣をきた童子がたずねてきた。そして「私は西王母(仙女)の使いのもので、いまここをとおりかかったところです。私は、あなたに助けてもらった雀の生まれ変わりで、本当に感謝しています。心ばかりのお礼の品ですが、お受け取り下さい」と言って、白玉でつくった環を四つ差し出した。そしてあなたのご子孫は、必ず四代にわたり、三公(太政大臣・左大臣・右大臣)の位につかれるでしょう、といって立ち去ったという。その後、楊宝の子楊震・孫の楊秉・曽孫の楊賜・玄孫の楊彪は、三公の位に上り徳望高かったという』は恩を忘れずお返しをしました。
窮亀『西晋の末、孔愉、あざは敬康という人がいた。会稽山の出身である。若い頃旅に出て、余不亭というところを通ったときのこと、子供たちが路上で、一匹の亀をおもちゃにしていじめているのを見た。敬康は可愛そうに思い、これを買いとり、もとの水に戻してやった。亀は、何回も首を左に向けながら、有り難うを言うように、水の中に姿を消した。その後敬康は建康のはじめ、功によって「丞相えん」という地位につき、余不亭侯にほうぜられたので、侯印を鋳造させたところ、亀の頭に似せた印のつまみが何度作り替えても左に傾いてしまって、どうにも不思議でならなかった。その時、敬康は昔のことを思い出し、亀の恩返しによって、今日この位に付いたことを感じ、いんはそのままこれを使い、長く愛用したという』にしても、救ってもらった恩義を感じ、恩に報いる心を起こしました。
畜生の仲間でもこのように報恩行をします。人として、仏法を聞けた恩に対して恩返しをせずにおれるでしょうか。

(第二十九節)
そのご恩に感謝し、これに報いる道(方法)は、世間では色々言っていますが、多くは的はずれであって正しくありません。恩に報いるといえば、有り難うという言葉で表したり、何か品物で返礼したりして終わりだと思いがちです。

しかし、ほんとうの恩がえしは、仏としての修行の生活に心を奉じて、あやまりない行動をし、その志をいつまでも忘れないでやりとげる決心より始まります。自分の命は、自分だけのものでなく、すべてのものの命を大切に、守り育ててゆくためにあると思うことです。
そして正法の大きな恩を感じ、他の為に奉仕するのが自分の使命だと自覚し、一日一日を無駄に使い減らすまいと、仏祖がたと同じ修行の暮らしに生きてゆくことです。

(第三十節)
月日のすぎ去るのは、矢よりも早いし、身命は草葉に宿る露よりもろく消えやすいものです。どのような良いてだてがめぐらせたからといって、時計の針をもとに戻すように、過ぎ去った一日がとりかえせるでしょうか。たとえ百歳生きながらえても、仏道と関係なく、なにも得るところなく、無為に過ごしているとしたら、悲しみ悔やまれる人生となり、人間のすがた・かたちをもつ物で終わってしまいます。でも、百年の年月は外界の刺激に

引きずられて、奴隷のように走りまわって過ごしたとしても、ながい月日のたった一日でも、仏としての修行の生活をしたならば、百歳の全生涯をその一日の修行によってとりかえすばかりでなく生まれ変わる次の生涯の百歳をもつぐない・悟りの一生にすることができます。この一日の身命は大切であり、仏の教えに目覚め正しい生活を行い得るカラダは、何にもまして尊いものであります。このように、人生の意義を考え、価値ある人間になるために使え、仏と同じ修行の日暮しができるこの心身を、こよなく愛し、いたわり敬うべきです。私たちが修行に精進することによって、仏が日々の修行をした結果が、それを証明しています。私達の修行日送りは、そのまま仏に通じているのです。ですから、いまここで行う行持(戒を守って、菩提新をおこした日常生活)は仏をつくり出す種子であり、仏になるべき因子となるのです。現実の日常生活を離れた人間完成というものはあり得ません。

(第三十一節)
ここにいう仏とは、三世十方の諸仏をいい、これまでも・今もこれからも、いたるところにあらわれるべき仏で、みな仏の種子を受け、仏の心を宿し、仏の道を進み、釈迦牟尼仏の心に生き、釈迦牟尼仏の歩んだ道を歩んでいます。
釈迦牟尼仏とは即心是仏(生きている心身そのままが仏)です。過去・現在・未来の三世の諸仏が皆すべて仏になる時は、必ず釈迦牟尼仏となるのです。これが即心是仏という仏です。ではこの即心是仏という仏は誰のことであるか、私たち自身の事でないかつまびらかに、実際に修行していって究めることです。これこそが仏のご恩に報いるただひとつの道なのです。